間違いでもやめられない

 「お兄ちゃん……」

でも、その背中は振り返らなかった。

 「お兄ちゃん……」

でも、その背中はだんだん遠ざかっていった。

 「お兄ちゃん……」

この距離ではもう、叫ばなければ耳に届かないだろう。
叫んでも呼び止めたかった。
でも、叫べなかった。

 「お兄ちゃん……」

この距離ではもう、走らなければ追いつけないだろう。
走ってでも追いすがりたかった。
でも、走れなかった。

違う。
叫ばなかったし、走らなかった。

呼び止めちゃいけない。追いすがっちゃいけない。
わかりたくない。でも、わかってしまう。

 「お兄ちゃん……」

後ろ向きの脚がもう、丘の影で見えなくなってることに気づく。
まわりが真っ白なことにも今気づいた。
真っ白な中に一人。

違う。
真っ白じゃない。

自分の足下から続いた足跡が、丘の向こうで見えなくなった。

違う。
足跡は丘の向こうから続いて、自分の足下で止まってる。
前向きに歩いて行ったのか、後ろ向きに歩いて来たのか、
もう、そんなことはどうでもよくなってた。

丘の向こうから、きれいに、点々と続いてる。

赤い。

湯気を立ててる。

赤い。

溶けたバターのように。ろうそくのてっぺんのように。

どこまでも、真っ赤。

暖かかい。手の中が。
熱くてたまらない。

赤いものが足元にも落ちる。
それでも構わずに、手を開けた。

とがった、銀色だったものが落ちる。
あとはもう、ただの赤だった。


 「大丈夫?」

今日のリーネの目は、桜の若葉の色だった。
まだ霜が降りてるけれど、明日から春の祭だ。リーネの目を見て思い出す。

 「おはよう、リーネ。」

答える。笑顔で。春らしく。
でも、少し声がかすれた。

ナックが自分でわかってることは、リーネはなんでも気づいてる。

 「お兄さん、来るといいね。」

だから久しぶりに夢を見たんじゃない?

リーネの言いたいことは、大体ナックにもわかる。

来るといいね。

 「うん。」

今度は、とびっきりのいい声で答えられたと思う。

 「みんなは?」
 「お寝坊さんね。」
 「え?大変、急いで行かないと。」
 「走れる?」
 「行こっか!」


1年前の今日も、雲一つない冷え切った朝だった。
お兄ちゃんとは、それ以来。

あの時のお兄ちゃんとは、もう二度と会いたくない。
今度会うときは、きっと元のお兄ちゃんでいてくれる。

絶対に。

そうじゃないと……じゃないと……


 「いたっ……」

気がついたら、リーネがすぐそばに来てた。
リーネは、いつもナックのとげを抜いてくれる。

 「よかった、大したことないみたい。」

リーネの細い指。お兄ちゃんの太い指。
でも、とげを抜く時だけは、お兄ちゃんの指はリーネのに負けてなかった。
普段は不器用なお兄ちゃん。
お兄ちゃんはいつも言ってなかったっけ。
 「ごめんなナック、痛くないよな?」

口で吸い出してるリーネの横顔。
軽い黒髪が強い金髪と重なる。

そういえば、抜いてもらったのはとげだけじゃなかった。
お兄ちゃんに肩車してもらうと、いつも髪の毛が何本か、指に刺さっちゃうんだ。
この話はリーネにしたかな?してなかったかもしれないな。

 「はい、おしまい。」

リーネはまた仕事に戻ってく。

ナックの髪も、金色。
お兄ちゃんみたいに逆立ってはいないけど、硬くて思うようにならない。リーネみたいにふんわりとはどうしても仕上がらなかった。

椅子運びに戻る。
やっぱり、少し痛い気がする。

たまに、お兄ちゃんがどうやっても、抜けないとげがあった。
寝てるうちに体から出てくんだってお兄ちゃんは言ってた。確か、リーネも同じことを言ってたと思う。
でも、実際に出てきたところを見たことがないから、なんだか信じられない。
毒を周りに出しながら、だんだん体の中に入っていって、血管を巡って、心臓に突き刺さるんじゃないか。

ずっとそんな気がしてならなかった。



お兄ちゃんが来たのは、その次の週の雪の日。

ノーステリアの冬の終わりはいつも牡丹雪だった。

冬が終われば、巡礼の季節がやってくる。
リーネは今日も院長先生に呼び出されたみたい。
巡礼をはじめる歳に決まりはないけれど、孤児院からずっと教会に暮らしてる人にしては、確かに少し遅いかもしれない。
ナックも、そろそろ考えてもいい頃だった。
去年は、あんなことがあったから行かれなかったけれど。
巡礼に出れば、しばらくはお兄ちゃんとは会えなくなるだろう。

お兄ちゃんは、そのことに気がついたのかもしれない。


 「ごめんなナック。ちょっと忙しかったんだ。」

ちょっとじゃないことくらいナックにもわかった。

お兄ちゃんは、何も気づいてない。
自分が遠くに離れたことも、妹が遠くに行くことも。
きっと、自分が昔のように笑えなくて、無理してることも。

 「どうだったんだ、祭は?」

ナックも昔のように笑えなくなってることに気づいてないんだから。

そんな細かいことを気にするお兄ちゃんじゃない。
他人の顔色を気にして笑顔を浮かべたりするお兄ちゃんじゃない。
誰かを気にして笑うとしたら、ただ一人、ナックのためだ。

信じてた。

声が顔の内側でくぐもってる。

 「そうか、良かったなあ。悪い、行きたかったんだけどな。」

ナックにもわからない。
ナックの言いたいことに気づかないで本心で言ったのか、
気づいてたけれど気づかない振りをしたのか、
それとも、話を聞いてないで相づちを打ったのか。

ナックも気づいてない。
自分に、お兄ちゃんのことがわかる程の余裕がないこと。

自分こそ、何も気づいてないこと。

 「なあ、ナック。」

でも、この顔だけは見たくない。
形だけでも、笑っていてほしい。

聞きたくない。
こんな顔をしてるときは、必ず、
 「いや。ナックも知っておかないとだめだ。」

知りたくない。
なんでお兄ちゃんがこんなになったのか。

1年前の、あの時の顔。

見たくない。
思い出したくない。
そのたびに、昔のお兄ちゃんが思い出せなくなる。

もう何もなくしたくない。
思い出までなくしたら、もう何もない。
自分の中に何も残らない。

 「あいつの名前は、クレイシヴだ。」



自分の手が見えない。
何も見えない。
何も聞こえない。
自分の心臓の音が聞こえない。

遠くから、白い光が来る。
細くて、長くて、左右に揺れてる。
だんだん、近づいてくる。

 「探したぞ、クレイシヴ。」

聞き慣れない声。
ずいぶん年をとって枯れた声。

 「教えろ。なんでオレの親を殺した!」

答えなきゃ。
そうだった。クレイシヴ、それはあたし。
でも、誰を殺したんだろう。
覚えてない。
覚えきれないほどたくさんの人を殺したかもしれない。
誰一人殺してないのかもしれない。

殺されたのは、自分だけかもしれない。

 「この日のために、この数十年生きてきた……」

顔が刃にうつる。
疲れ果てた顔。
ずっと笑ったことのなかった顔。
変わり果てた顔。なのに、

なんで懐かしいんだろう。
寂しいのに、こんな顔なのに、なんで懐かしいんだろう。

何十年もずっと、あたしのことを追い続けてくれた。
それだけで、なんでこんなに嬉しくなれるんだろう。

 「地獄で懺悔しろ!」

素早く、ゆっくりと青い影が落ちてくる。
よけられると思った。
よけたかった。
よけられなかった。
よけたくなかった……?

 「ナック!?」

右の胸が吹き飛んだ。
心臓が空気を全身に送ってる。
両手を広げて立っていた。
それから、崩れる。

昔のままのお兄ちゃん。
今のままの、あたし。

 「ナック、ナック!」

違うの。あたしはナックじゃないの。
妹じゃないの。かたきなの。
今まで何回も、お兄ちゃんや、
お父さんやお母さんや、
自分を殺してきたの。
お願い、もう苦しませないで。

殺して。

 「ナック、起きて。大丈夫なの?」


今日のリーネは滝壺の色。
でも、緑だけじゃなかった。
リーネ、泣いてくれてたんだ。

 「心配しないで、まだ夜明け前だから誰も起きてないわ。ねえ、ナック、何があったの?」
 「ううん、大丈夫だから、リーネも休んでてよ。」

だめ。やっぱり声がかすれる。

 「昨日のことなの?何かひどいことがあったの?」
 「お兄ちゃんとは関係ないよ。お願いだから、お兄ちゃんのことは悪く言わないで。」

お兄ちゃんは、必死なんだ。
あたしは必死じゃないから大丈夫。
大丈夫なんだから。

 「どんなことでもいいから、話してよ、ナック。」
 「ありがとう、リーネ。でも、ほんとになんでもないから。心配しないで。」

今度はちゃんとした声で言えた。
でも、リーネの今度の目の色は、ナックの知ってるどの色でもなかった。
ナックの額から手をはずしても、ベッドから腰を浮かせても、
リーネは目だけははずそうとしなかった。

暖かなのに、なんでだろう。
どこか寒いのは、気のせいなんだろうか。

 「それならいいんだけど、でも、忘れないで。私はいつでもナックの味方だから。何言ってもいいんだよ、ナック。」



リーネは、自分のことはあんまりナックに言わなかった。
ナックが知ってるのは、ナックが生まれる3年前、物心がつく前からリーネはここにいたってことだけ。
言うことがないんだ。
ナックが1年前からいる場所に、リーネは19年間もいるんだから。
ナックにできる昔話が、リーネには一つもないんだ。
リーネと出会ってから1年にもならないけど、それはよくわかってた。

ナックの家は、貧乏じゃなかった。
大陸教会は貧しい人のためなんて言ってるけど、それは建前。
教会にはたくさんの人がいる。ご飯も、服も、たくさん要る。ただでは手に入らない。

お金持ちは、自分の子どもを1年くらい形だけ教会に入れて、たくさんお布施をしていい顔をしてる。
ナックは本当に僧侶になりたかった。だから、そういう人たちとはつきあわなかった。
お布施をしてない人ともつきあわなかった。ナックの友達は、誰もつきあってなかったから。

修道服を見れば一目でわかるようになってる。
毎日新品を着てるのが、お金持ち。
古着でも、毎日違う服が着られるのが、ナックたち。
いつも同じ服を着て、自分で継ぎを当てるのが、孤児院の人。
1年前はナックも継ぎのあて方なんてわからなかった。知る必要もなかった。


去年の夏前だったかな。
ナックは一番ひとりぼっちだった。
友達は友達じゃなかったことを思い知った。

少し前は、「大変だね」と言ってくる人もいた。
ナックはその人たちから、作った表情の読み方を教わった。
ナックにからんで、自分のうさを晴らそうとする人もいた。
ナックはその人たちから、作り笑いの作り方を教わった。

少し前は、たくさんの目がナックを向いてた。
たくさんのひそひそ声が、ナックを囲んでた。
でも、本当に辛いことはそんなことじゃなかったんだ。
何もないこと。
いやでも、大嫌いでも、自分とずっとつきあわなくちゃならないこと。

なんとも思わなくなった。
なんにも感じなくなった。
まわりの人たちがナックに対してそうだったみたいに。
いてもいなくてもよかった。
耳は聞こえない。
目は見えない。
必要なかった。誰にとっても、ナックにとっても。


 「ねえ。」

聞き違いだと思った。
きっと、ナックの向こうの人に言ったんだ。
でも、誰もいなかった。

そんなことはないって、はじめからわかってた。
ナックは、そういう言葉はもう聞こえなくなってたから。
間違いなく、あたしに言ってる。

 「ねえ、あなたよ。」

肩が勝手に動いた。
唇が勝手に震えた。

なのに、なんでだろう。
足が勝手に動かなくなった。
首が勝手に振り返った。

やさしい。
声にあふれてたのが、
緑色の目の端にも、
細い指と指の間にも、
黒くて柔らかな髪の先にも。

ナックは一瞬みんなが見えた気がした。
お兄ちゃん、お父さん、お母さん、村長さん……
誰とも違った。
前からずっと知ってたような気がするけど、
振り返らなかったら、二度と会わなかった。そういう人だった。

 「継ぎのあて方、教えさせてくれない?腰の所、もう少しで破れちゃいそうだから。」

ナックも、見たときからわかってた。
その子の服の継ぎなんかを見てたんじゃない。
その子の継ぎのあて方が下手でも、その時のナックは気がつかなかったんじゃないかな。

感じてたんだ。
その子が、ナックと同じ場所にずっといたんだってこと。
その子も、ひとりぼっちなんだってこと。
おしゃべりを何年もやって、何も受け取らない人たちとは違って、
何も話さなくても、通じることができる人だってこと。
あたしが話したいことは、なんでも聞いてくれる人だってこと。

話したくても話せないことを、ちゃんとたずねてくれる人だってこと。

 「あの、一つ聞いても……ううん、いいわ。」

よくない。
やっと動くようになった首で。

 「え?……聞いて、いいの?」

首を一生懸命縦に振った。

それが、ナックが一番聞いて欲しいことだってわかってたから。

 「……どんな人だったの?お父さんとお母さんって。」

泣いた。
はじめて、泣いてもいいって、許してくれたんだ。
こんなにナックが泣けるってこと、すっかり忘れてた。

怒ってもいなかったし、悔しくもなかった。
悲しかっただけ。

信じられなかった。
1年前の夏、村の入り口まで迎えに来てくれたお母さん。
見習い期間修了をナックより喜んでくれたお父さん。
もう二度と会えないなんて、わからない。
短い休みの間中、ずっと話し相手になってくれたお兄ちゃん。
半年前のお兄ちゃんじゃない。
ナックには、誰が殺したのか、なんで殺したのかなんてどうでも良かった。
お兄ちゃんがお兄ちゃんじゃなくなったのが一番悲しかった。
かたき討ちなんて、どうでもいいじゃない。

ナックは、ナックのそばにいてくれれば良かったのに。

その子の胸は、とってもあったかかった。
たくさんの涙が、たまってるんだと思った。

 「私、リーネ。あなたは?」

この子は、あたしの噂なんかなんにも聞いてないんだ。
修道院中が全員忘れたと思ってたのに、この子は知らなかったんだ。

 「……ナック。」



 「ねえ、リーネ。」

リーネの荷物。当たり前だけど、多くはない。
みんなは今頃、おつとめの最中だろう。
ちょこっと首だけ回す。こういう仕草一つ一つを見ることも、しばらくないんだ。

 「いいの?ライのこと。」

ナックは、見ちゃったんだ。
院長先生に、雪が溶けたら巡礼に出ることをお話しした日。
部屋に帰るときに、ライと鉢合わせした。

ライ、泣いてた。

夏ごとの部屋割りで、たまたまリーネと同じ部屋になったとき、はじめてライと会った。
その前まで、リーネと同じ部屋だったんだって。
リーネから、ライのことも色々聞いた。
すごく頑張りやさんで、あたしより1つ年下なのに2年前に見習いを修了したこととか。
リーネが困ったときもいつもかばってくれたこととか。
どんなに悔しくても、絶対に泣かないこととか。

夏までは、リーネの部屋に結構よく来て、話したりしてた。
ナックは、あまり話さなかったけど。
でも、最近来てなかった。
リーネも、あんまりライのことを話さなくなってた。

 「大丈夫。あの後、ちゃんと会って話したから。」

気が抜けたみたいに座ってたリーネ。
部屋に帰って、聞いたけど、あんまり話してくれなかった。
喧嘩したのって聞いたら、そうじゃないって言ってたけど、
リーネのことはナックは大体わかるんだから。

リーネが、精一杯笑ってるのがわかってた。
ナックは何も言わなかった。

ライも、きっと辛かったんだ。

あたしは、誰にも辛い思いをさせないで巡礼に行けると思う。
それで、いいんだよね。
だから、リーネに辛い思いはさせたくない。

 「ねえ、ナック。」

首をちょっと向けた。

エメラルドだと思った。
一度もナックは見たことがなかったけれど、リーネの目は宝石だった。
今まで見た中で、一番きれいな色。
一番輝いてて、鋭くて、もろい色。
じっと、ナックを見てる。

ナックとリーネは、向かい合ってる。
手を伸ばせば届くくらい、話せば息が伝わるくらいの距離で。

 「ナック。一緒に行こう、ね?」

ナックも何回も考えたことだった。
無理だってわかってるはずなのに。
修道院では、自分の故郷を通って巡礼に行くことは禁止されてる。
リーネが行くのは、東のゼビアマインの町。
ナックの故郷アルシアは、その途中にあった。
だから、ナックは西のバイツの町に行くことになったんだ。

 「私、ナックと一緒ならどこへ行ったっていい。バイツでもいいから。」

嘘だ。
修道院の巡礼は、行く先も、立ち寄る教会も、みんな決まってる。
勝手に巡礼から外れても、どこで外れたのかわかるようになってる。
抜け出すなんて、無理なのに。

 「いいの。ナックと一緒なら、私教会から抜けてもいい。」

そんなこと、できないよ。
修道院から抜けたら、もう僧侶になるチャンスはないのに。
リーネにそんなことさせたくない。

リーネも、僧侶になりたいんだよね?
違わないよね?

 「ナック。」

熱い。
リーネの手、とっても熱い。
肩に手を置くと、
肩から血が噴き出してるみたいに、熱くて、赤い。
ぎゅっと掴んで、離さない。

 「私、ナックがいないと、どうしていいのかわからないの!」

熱い。
リーネは体中熱い。
胸も、腕も、全部真っ赤。
ぎゅっと抱きしめて、離さない。
心臓の音が聞こえる。
すごく、速くて、強い。
リーネ、震えてる。
リーネ、喘いでる。

ナックも震えてた。
寒くてたまらない。
早く、ここから出なきゃ。

逃げなきゃ。

 「ナック。私のこと、好き?」

リーネ。
今まで、誰よりもわかってると思ってた、リーネ。
今まで、誰よりも好きだった、リーネ。
ううん、今も好き。
好きだけど、好きだけど、

すぐに返事は、できなかった。

 「あたし、リーネのこと、好きだよ。」

だめだった。
声は全然かすれなかった。
とびっきりの、通る声だった。

とびっきりの、笑顔だった。


ナックには、何もできなかった。

見るのも辛くて、目を向けてられなかった。

リーネを抱きしめてあげたい。
最初に会ったとき、ナックがしてもらったみたいに。
あの時のお返しは、できてないのに。

そうしないと、リーネはナックからずっと遠いところに行っちゃうって、わかってたのに。


床には、涙がまだたまってた。
でも、すぐに乾いちゃうだろう。
雪も、もう日陰に残るだけ。

春の日は、リーネよりあったかかった。






春の長雨はしばらく降り止みそうもない。
トレイアの船着き場には、船は一艘もなかった。

とぼとぼと歩いてるサンダルは、泥まみれ。
足首には、たくさんの傷跡。
繕いきれなかった、たくさんの服のかぎ裂き。
ぐっしょり濡れて、ぴったり張り付いた髪。

もっとも、今のナックには船が出ていてもどうしようもなかった。
中央山脈で、鉄砲水に足止めされて、宿代を余分に使ってしまってた。
今のお金で船代が足りるかどうかだってわからない。次の教会支部があるクレスフィールドまでたどり着けないかもしれない。
でも、今夜は宿をとらなくちゃいけなかった。

村は静まりかえって、灯りは一つもない。
人一人だって歩いてないし、戸も窓も全部閉まってる。

中には、お父さんがいて、お母さんがいて、子どもたちがいる。
暖かい暖炉と、湯気の立つパンと、柔らかいベットがある。

窓が全部閉まってて良かった。
その人たちが見てる見かけだけだったら、いくらでも傷つける。

やっと見つけた。
宿屋の脇をずっと入ったところ。
その建物だけは、窓が開いてた。
その建物だけは、中も冷たかった。
その建物には、暖かい暖炉も、湯気の立つパンも、柔らかいベットもなかった。
心配する人も、世話を焼く人もいなかった。
その建物には、戸もなかった。

藤の蔓が窓枠を破ってる。
床石の隙間から草が生えてる。
長椅子は雨漏りで腐ってる。
糞と羽根で真っ白。
隅に吹き溜まった去年の落ち葉は、ゆっくり土になろうとしてる。

長机の下に、ちょうどうずくまれるくらいの狭さで、雨がしのげるところがある。
石の床は冷えきって、ナックと同じくらいの肌触り。
気持ちいい。
このまま、ずっと眠れるのかな……


なんで?
なんで放っといてくれないの?

逃げなきゃ。
でも、こわばったナックの体じゃ、転げ落ちることしかできなかった。

 「目が覚めたね。」

 「無理しなくていいよ。でも、目が覚めたらいつまでも寝てちゃだめだよ。」

いつまでも眠っていたかったのに、
目を覚ましたのは、あなたじゃない。
あったかさなんていらなかったのに。
ベットも、食事も、世話を焼く人もいらなかったのに。

 「いつまで病人面してんだい。さ、起きた起きた。」

病気じゃない。
病気だったら、お医者さんで治してもらえる。
病気だったら、教会の人たちでも治せる。
ナックでも治せる。

 「今日はミルクあっためてみたんだ。飲みなよ。」

ベッドのすぐそばにテーブル。
言い方を換えれば、ベット兼用のベンチ。

石の床のほうが、よっぽどましだった。

 「ちょっと待ってね、今おかゆ作ってるから。」

小麦粉のこげるにおいが、小屋中いっぱいになる。

屋根が破れてれば、壁が崩れてれば、戸が外れてればよかったのに。

 「おまちどお。食べはじめててもよかったのに。」

とびっきりの笑顔で、うなずいてやる。

ちょっとだけ顔を見る。
声だけ聞いて、ずいぶんおばさんかと思ってたけど。

 「あんたのことずっと「あんた」って呼ぶわけにもいかないしさ、まず名前教えてよ。」

見かけなんか、もううんざりだ。

 「荷物は!?」
 「大丈夫だよ、ちゃんとあるよ。」

なんで放っといてくれないの?
あたしに何をするつもりなの?

 「これだろ?なんもとってないし、中も見てないよ。」

どうせあなたにはたいしたものじゃないんでしょ。

 「あたしにゃこんなものどうだっていいけどさ、あんたには大切なものなんだろ?」

あたしにもたいしたものじゃない。
あってもなくても、そんなに違いはないようなものばかり。

 「そっか、あたしの名前か。ハースでいいよ。あんまりその名前で呼んでくれる人、いないけど。」

あたしの名前?
あたしの名前を呼んでくれる人なんて、いまさら必要なの?

 「あたしは、ナック。ハース、よろしくね。」

とびっきりの通る声で答えてやった。

 「あんた、なんであんなとこで寝てたんだい?誰かの家に泊めてもらえばよかったじゃないか。」

あんなとこ?
じゃあ、あなたはなんであんなとこであたしを拾ったの?
誰かの家に運べばよかったじゃない。

 「怖かったから、」
荷物をとられるのが、
中で親切にされるのが、
 「誰が住んでるか、わからないし。」

 「大丈夫だよ、この村の人はみんないい人だよ。」

全然笑い事じゃない。

 「ごめん、そろそろ仕事に行かないと。って言ってもナックの食べるものがないか……」
 「大丈夫、あたしもう行くから。」
 「だめだめ、まだ船は出てないよ。どう?あたしの仕事場に来ない?」

あなたと一緒に?
こんな子と一緒に、何日過ごすのよ?

 「悪い、ちょっと着替えて。これ、たぶん大きさはぴったりだと思うから。」

赤いセーター。

 「ありがとう。」

とびっきりの、笑顔。



 「バイツ?聞いたことないなあ。でもそれって、遠いんだろ、すごく。」

うなずくしかなかった。

 「湖越えて、山越えて、海も越えて、もっと向こうなんだろ。」

うなずいた。

 「すごいなあ。あたしにゃ、考えもつかないや。ナックのほうがお姉さんだもんなあ。」

ナックには無理だって、思ってるんだ。
荷物もお金もなんにも持ってない人にできるわけないって、思ってるんだ。

 「ううん、クレスフィールドまで行けば、」
教会で荷物が、
 「知り合いの家で荷物がつめられるから、そんなに大変じゃないよ。」
 「すごいなあ。あたしもね、自分のパンが焼けるようになったら、そのくらい遠くまで行きたいな。」

この子はまだ知らないんだ。
どこまで遠くに行っても、なんにも変わらないってこと。

 「だってほら、あの親父なかなか死にそうもないだろ?自分の窯を持つんだったら、遠くまで行かないと。」

ナックが14のころを思い出してみる。
あのころは、自分は僧侶になりたいんだって思ってた。
今から考えると、本当にそうだったのかわからなくなってくる。

 「そのバイツってとこ、パン屋さんあるのかな?人手が足りなくて、困ってたりしないかな?ねえ、どんなとこなの、バイツって?」

そんなこと、考えたこともなかった。
バイツがどんな所かは知ってる。
大陸教会最大の聖地の一つで、大陸の北西にあるってこと。
それだけだったかな?

興味なんかないんだ。
教会があれば、どこも同じだし。
たどり着けるとも思ってない。

 「はじめて行くところだから、あたしもよく知らないんだけどね。」

笑顔の下で、一生懸命思い出す。
この子が面白がるような話はなかったかな。

 「砂漠にすごく近いんだって。風が吹くと砂まみれになっちゃうから、洗濯物も干せないし、窓も開けられないんだって。」
 「砂漠かあ。ここの湖より大きいのかな。」
 「確か、そうだったかな。」
 「じゃあ、向こう側まで全部砂なんだ。すごいなあ。雨は降らないのかな。」
 「そんなに降らないと思うよ。」
 「雨の代わりに砂が降ってくるってわけか。ここは雨ばっか降るけど、砂ばっか降ってきてもいやだろうな。」

ナックは全然面白くない。
見たこともないとこなんか、どうでもよかった。
見たことのあるところだって、どうでもよかった。

目の前の晩ご飯も、特に興味はなかったけど、
さめたスープに硬い皮のパンをひたして食べてると、どうしても修道院を思い出してしまう。

 「ってことは、ひょっとしてパンは人気ないかもね。ほら、食べるとき水がたくさんいるだろ?」

この子は、修道院にいた頭に何も詰まってない人たちとは違う。
その代わり、小麦粉が詰まってる。

小麦粉はもううんざり。

パン屋さんに連れて行かれても、できることなんかなかった。
お客さんもそんなに来てなくて、人は十分足りてた。

真っ白い小麦粉を、何回も運ぶ。
この季節は小麦粉がしけるのも速いから、一度に多くは運べない。

セーターの編み目の中まで、小麦粉が入り込む。

でも、お客さんのところに顔を見せないですんでよかった。
ハースが何度も薦めたけど、結局親方の頑固にはかなわなかったんだ。
よそ者には、ちょうどいい仕事かもしれなかった。

 「パンじゃなかったら、何食べてんだろうね。そういうところでもおいしく食べられるパンがあるのかな。だったら焼いてみたいなあ、そういうパン。いくら食べてものどが渇かないんだ。」

ハースとおんなじくらい、ナックも2つ違いだって知っておどろいた。

ハースはきっと、このまま生きてけるだろう。
このままうまくいけば、見習い期間も終わって、自分でパンを焼けるようになって、ちゃんと自分の店を開くだろう。
ナックはどうなんだろう。
このまま旅を続けて、うまくいってバイツにたどり着いても、その後どうなるんだろう。

今は未来のことなんか、考えたくない。

 「ねえ、ナック。向こうについたらさ、向こうのパン送ってよ。パンじゃなくても、何を食べてるのか、さ。」
 「わかった、きっと送るね。」

たどり着きもしないところのものを、どうやって送るんだろうね。

 「一つ、聞いてもいい?」

だんだんわかってきた。
このあとこの子は、あたしが一番聞いてほしくないことを聞いてくる。

 「なあに?」
 「ナックはさ、どうしてバイツに行くの?」

 「悪い、聞かなかったことにして。」
 「え?別にいいんだよ。」

聞かれても、答えないけど。
答えられないけど。

 「ねえナック、明日は窯の仕事手伝ってみれば?」

雨は夜になってまた激しくなっていった。



あの子はもういなかった。

ブーツとコートは無かった。
たぶん、まだ日の出くらいのはずなんだけど。

でも、行くところの見当は大体ついてる。

やっぱり、ここにいた。

ほとんどむき出しの屋根の梁、眠ってた鳩が、あっという間にハースのまわりに集まる。
重い霧雨を含んだ羽根は、鈍く降ってくる。舞い散るというわけにはいかなかった。

 「まだ寝てても良かったのに。」
 「ハースって、教会好きなの?」
 「あたしは鳩にしか用はないよ。」

見かけなんか、もううんざりだけど、
でもナックも、ここの鳩とハースの仲の良さは信じたかった。
手からも、どんどんパンくずを食べてる。

いっせいに梁の上に戻って、また羽根が散る。
じっと入り口の方を見てる。

 「なんなんだい、あんたは。」

ナックよりずっと年上に見えるけど、まだ20前の男。
服には継ぎひとつあたってない。
荷物をなんにも持ってない。宿屋に置いてきてるんだ。
目も口も鼻の穴も真ん丸くしてなければ、それなりに整った顔つきなんだろう。

お金がないのも無理はなさそう。
きっとオイルレイクのおみやげがどっさり詰まってるんだ。
ノーステリアからクレスフィールドの間で、お金が使えるところなんてそこしかないから。

もぞもぞ服の間から引っ張り出す。
ゼビアマイン修道院。巡礼の認可証だ。
ハースは眉一つ動かさなかった。
ハースの目は、霧の中でもはっきり光ってる。

 「この村には、教会なんかないよ。黙って帰んな。」
 「お二人とも、教会がお好きなんですか。」

ばかなこと聞いた。
ここはもう、教会じゃない。
だからここで泊まれたのに、あたしはよくわかってなかったんだ。

 「帰れって言ったのが、聞こえなかったのかい?もう一度言ってほしい?」
 「皆さんの篤信に免じて、私に……」
 「金くらい、自分で稼げ!」

鳩は身じろぎもしないで、じっと入り口の方を見てる。
今日も雨が降りはじめた。

もう見飽きた顔だった。
1年前、散々見た顔。
哀れみ深く、同情心たっぷりに、見下した顔。

他人のことだけを見て、自分のことはぜんぜん見てないときの顔。
自分を見たくないとき、一番やりやすい顔。
本当は怖いのを、ごまかそうとしてる顔。
他人からも、自分からも。

 「皆さんにも加護がありますように。」
 「帰れ!」

扉を閉められなくても、追い返すには十分だった。

鳩が一羽二羽、すっかりふやけたパンくずをつまみに床に来る。

 「冬が終わると来んだよ、ああいうやつ。この季節はそんなに多くないんだけどな。」

雨が本降りに変わってから、二人は廃墟から出た。


 「明日は、ひょっとしたら船が出せるかもってさ。」

ハースは皮袋を抱えてきた。

 「親父にそのこと言ったら、くれたんだよ。」

1年前の春の祭りを思い出してしまう。
なんでナックは、お酒を飲んでも酔っ払えないんだろう。
いっそのこと酔いつぶれられれば、楽なのに。
酔いつぶれちゃえば、あんなに飲まされることもなかった。
飲むこともなかった。

ナックはその時、生まれてはじめて吐いた。

1年ぶりのお酒は、ワインじゃなくてウィスキーだった。

 「飲んでるよ、その前に。ここに来た夜さ、あたしが一杯飲ませたんだよ。死んでなきゃあったまると思ってね。あんまり飲まないでよ、怒られるのはあたしなんだから。」

この子はあんまり強くなさそう。
ナックもペースに合わせることにした。

 「あそこ、毎日行ってるの?」
 「あの子たちが待ってんだから、行かないわけないだろ。」

嘘だ。
たったそれだけの理由で、自分の食べる分を分けるわけない。

ハースはパンの耳にかじりつく。
ナックも。

ナックは、ハースのことがいやでたまらなくなる。
でも、今夜でおさらばだ。

 「なんで、あの教会あんなになっちゃったの?」

仕返しはちゃんとしてやった。
窓を見たって、まだ雨はちゃんと降ってるんだから。

 「ごめん、変なこと聞いちゃった?」

とびっきりの通る声で、さらっと言ってやる。
とびっきりの笑顔で。

 「盗賊だよ。8年くらい前だったかな。」

なんで答えられるの?
嘘を言ってるんだと思った。話をはぐらかそうとしてるんだと思った。
でも、この子の目は底まで透き通ってる。

 「こんな村に盗賊が来たって、なんにも盗むものなんか無いって思うだろ?そいつはちゃんと知ってた、一番金がたまってるところをさ。」

ただ恨んでるだけじゃない。
ハースの口は、怒ってもいないし、憎んでもいないし、あざ笑ってもいない。
だからって、淡々と昔話を話してるわけでもなかった。

人の話をこんなに聞きたいって思ったの、どのくらい前だったんだろ。

 「なんの役にも立たない奴が一番金持ちだってのは、いつものことだよ。そんなこと気にしない方がいいんだ。でもあいつらは、自分が役に立ってると思ってんだ。自分は人のために生きてるって思ってんだよ。」

2年前のあたしは、どうして僧侶になりたかったんだろう。

他の人の役に立ちたかったから?

思い出せなかった。

 「あたしはパンをこねるとき、他人のためにやってんだなんて思わない。だって楽しいもん。自分の役にも立たない人が、他の人の役に立てるわけないだろ?」

ナックがハースにどれだけ話しても、相手にならないわけがわかった。

ハースが話してるのは、全部自分の話だった。
それも、全部今の話だった。
ただの8年前の話だったら、6歳の時起きたって聞いただけの話だったら、ハースは絶対話さなかった。

でもやっぱり、ナックにはわからない。
自分のことをしゃべれる、無神経さが。

なんで、ナックに話すんだろう。

 「ごめん、なんかずっとあたしばっかりしゃべってるよね。」

雨はますます激しく降ってくる。
明日船が出せるなんて、信じられなくなってた。

船が出せないなら、明日も窯につこう。
天板の上で、こんがり焼けてくパンを見ていたい。
夜はまた、こうしてハースの話を聞く。
雨はずっと降り続く。

 「雨……降り止むよ、これは。朝にはきれいに晴れてると思うよ。」



破れた屋根から、日の光は柔らかくハースの頬を照らす。

 「あんたも、やってみなよ。」

簡単なわけがなかった。
なかなか近寄れなかったし、近寄ってこなかった。

 「投げちゃだめだよ。投げても食べないから。」

待った。
なんにも急かされることはない。

一羽、歩いてくる。

期待なんかしてない。
鳩なんかにわかるわけがない、
ナックが、誰なのか。

それでも、やって来て、
くちばしがまめにさわって、少し痛かった。

それからは、どんどんやってきて、ナックの手は空っぽになる。


 「ちょっと、渡したいものがあんだ。」

服。
一度か二度くらいしか、袖を通してない。
ピンクのベストと、薄い上着。

 「くれるの?あたしに?」
 「あたしにゃ、似合わないし、着ることもないしさ。」
 「悪いよ。お休みの時、着てもいいじゃない。」

 「赤い色、嫌いなんだろ。あれ着るから、どうにでもなるよ。」

ナックは、いつまで経ってもこの子が好きになれそうもない。
ベストのポケットに、お金が入ってるのをナックは見逃してない。

もううんざり。
もう何もいらない。
早く行こう。

 「これ、まだいるんだろ。」

いらないとは、言えなかった。

かぎ裂きが、縫い直してあった。

丸まってたのが、延ばされてた。
 「違うよ、あたしが抜き出したんじゃないって。あんたがわきに抱えたまんま寝てたんじゃないか。」

そういえばそうだった。
忘れてた。
あのとんまとおんなじことをしたんだ。

こんな紙切れ一枚だけで、なんとかなると思ってたんだ。

どんなにナックががんばっても、もう後ろを向くしかごまかしようがなかった。

「なんで、あたしを泊めたの?」

悔しいのか、怒ってるのか、嬉しいのか、
わけがわからなくなって、ぐちゃぐちゃになって。

あたしが教会の人間だって知ってて、なんであんな話をしたの?
なんで、あの時みたいに追っぱらわなかったの?

なんで放っといてくれないの?

 「そらあ、ほら、あんたに、あたしのパン、食べさせたかったからさ。うまかっただろ?」

聞いても、答えが返ってこないのはわかってた。
やっぱり、この子は頭の芯まで小麦粉が詰まってる。
だから、生きてられる。

今のナックは、空っぽだった。
今のナックは、誰でもなかった。
だから、認可証と巡礼服は絶対に必要だった。

 「……いい僧侶になれよ。」

なんにも言わずに、船着き場へ行くナックの後ろ姿を隠すものは、今日は何もなかった。






 「悪いな、関係者以外立入禁止だ。」

フェイマルエターナル支部。そう書いてある。
垣根と壁を巡らせた、四角いだけの建物。
悪びれる様子もなく、マニュアル通りの返事をしてる。

町は、白い服ばかり。

三度目の正直とは、いかなかった。


無理もなかった。
ナックがエターナルのことを最後に聞いてから、1年以上経ってたんだから。
大陸教会の人がずいぶん入ってるって話は聞いてたけど、他にはなんにも知らなかった。
先生たちが教えてくれないことは、そのころはどうでもいいことだった。

その町には、誰もいなかった。
全部の扉が開いてて、
雨埃で、洗濯物が黒くなってて。

夏色に変わりはじめた太陽は、頭の真上から、家の壁を照らしてる。

 「点火するぞ。」

大きな声が聞こえた。
何人か、こっちに走ってきた。

真っ白。
埃一つ、汗のしみ一つついてない服。
日焼け一つない腕。

歪み一つない、顔。

鈍い衝撃が、地面から膝に抜ける。
埃の海の中に、尖塔が沈んでく。
拍手が聞こえる。
まわり中から。

白い海に、ナックは沈んでる。

 「すべての人に永き幸せをー!」

一斉に叫び返す。
まわり中から聞こえる。

その後は、またなんの音もしなかった。

埃の海が静まったとき、
白い海が引き返したとき、
それが、クレスフィールド教会の最後だったんだってわかった。


ハースのお金がなかったら、どうなってたかわからない。
でも、たぶんこれでもうおしまいだった。
食事にも、宿代にも使わなくても、
次のアネートの町まで行くには、どうしても船の切符を買わなくちゃならない。

戻るには、遠くに行きすぎてる。

どこまでも白服。
白服じゃない人もいたけど、みんな胸に赤いバッジをつけてる。
また潜るしかなかった。
白の海へ。

空っぽの体の中で、音も臭いも混ざり合う。
吐き気がしても、何も出せるものがない。

まっすぐ歩いてても、景色がふらついてる。
まっすぐな建物。まっすぐな道。
どこを見てもまっすぐなのに、ねじれて見える。

 「すいません、エターナルの方にしかお売りできないんです。」

ここにもバッジだ。
輝く歯の隣には、張り出されたばっかりのポスターがある。
「クレスフィールドに、神は目覚める」

ここから出ないと。

何すればいいのかわからないけど、ここからは出ないと。
息が詰まっちゃう。

目からも、
耳からも、
鼻からも、
白い海が入ってくる。
真っ白い太陽。
日の当たるところに行けば行くほど、白い海が入ってくる。

真っ白で、なにも見えない。
真っ白で、なんにも聞こえない。

埃一つない道を歩くのには、はじめから慣れてなかった。

何もない道に、つまづく。

誰も見てなかったし、誰も聞いてなかった。
どんどん流れていく。でも、ナックの体は運ばない。

また立ち上がって、もう、何もすることもなかった。

 「ナック。」

聞き違いだと思った。
でも、この声が出せる人は、他に誰もいなかった。

「ナック、なんでしょ?」

脚が勝手に動いた。
でも、すぐにもつれた。
もう、動けなかったんだ。

 「大丈夫?」

手と手が重なる。
細くて白い指。
真っ白な袖。

なんでここにいるのかわからなくても、
なんでここにいたのかわからなくても、
ナックは他に何もできなかった。



なんで、旅を続けてるんだろう。
なんのための旅なのかもわかってないのに。
まわりの人に迷惑ばっかりかけて、いったいなんのお返しができるんだろう。
あたしなんかのために、どのくらい巻き込まなきゃいけないんだろう。

夏の太陽ももう、ずいぶん大きくふくれあがってた。

体を起こしてみる。

広い石造りの部屋には、この季節でもひんやりした空気がたまってる。
部屋の隅にも、埃一つ落ちてない。
机と椅子が、ぱらぱらと置いてある。

ちゃんと荷物は、置いた場所にあった。
出て行こうと思ったら、出て行ける。

出て行ける。
ただ、出て行ってもできることがないからここにいるんだ。

何回、言い聞かせたんだろう。

 「ただいま。」

もう、普通のご飯でも食べられるって言ってるのに。
言うだけは。

毎日食べても、コンソメスープはおいしい。
まだ作れるメニューはそんなに多くないみたいだけど、がんばって作ってる。
ナックは、おいしいって、いつもほめてる。

二人とも、まだ何も話してない。
今日こそは話そうって、いつも思う。
今日こそは聞こうって、いつも思う。

だから、

 「リーネ。」
 「ねえ、ナック。」

 「いいよ、リーネ。先に話して。」
ううん、なんでもないよ、ナックの方から言って。
ううん、別に。
沈黙。

 「うん。あのね。」

ナックが来てから、7日。
十八回の沈黙の後。

 「私、クレスフィールドに行くことにしたの。」
 「クレスフィールド?」

黒くなった洗濯物も片づいたんだろう。
真っ白で、まっすぐな、埃一つない町。
人がどこにもいない町。

 「お祭りがあるの。それの準備で。」

わかってた。
わかってたけど、聞かずにはいられなかった。

 「なんのお祭り?秋のお祭りは、まだ先だよね?」

 「スープのお代わり、いる?」
 「うん。」

今日のスープはコンソメがきつすぎたって、リーネは言ってた。
ナックは、大丈夫だよ、気にならないよって、言ってあげてた。
机の上の水差しは、もう空になってた。

 「ナックは、これからどうするの?まだ巡礼、続けるの?」

リーネが何を言いたいか、ナックはわかってた。
家の中でははずしてるけど、ナックはちゃんと覚えてた。
この町で会ったとき、しっかり見てたんだ。

バッジがなかったら、この町で家は持てないことくらい、気づかないわけがない。
それでもリーネは、ナックの前ではつけなかった。

言わなくていいことだった。
聞かなくてもわかってることだった。

でも、聞かずにはいられなかったんだ。

 「リーネ。巡礼どうしたの?なんでこの町にいるの?」

返ってきたのは、聞き慣れない声だった。
ぞっとするほど、きれいな声。
透き通って、乾いてて、
湿っぽいかすれ方なんか、一つもない声。

どこかで聞いたことのある声だったけど、思い出せない。
とにかく、ナックの知ってるリーネの声じゃない。

 「ここにいれば、ナックに会えると思って。」

あたし?
あたしと、なんの関係があるの?

リーネの目を、見られなかった。

あたしの、せい?

 「巡礼、すればするほど苦しくって。いつまでも、ナックのこと、忘れられなくて。」

気がついた。
あたし、リーネのこと、会うまで思い出さなかった。
ずっとリーネのこと考えてた、
そう思いたいのに、

リーネのことを考えたことなんて、一度も思い当たらなかった。

 「きっとゼビアマインに着いても、もっと苦しいんだと思ったの。思い返したら、大陸教会にいて幸せだったことなんか一度もなかった。だから、もうやめようって。ナックなら、わかるよね?」

リーネの言うことはわかる。
ナックの一番、痛いところをさわっていく。

でも、リーネのことはどんどんわからなくなっていく。

気づいたら、ハースの声を思い出してた。
教会がなくなったときの話の、あの声。
あの子の中に小麦粉以外のものが詰まってるんだとしたら、それは教会の瓦礫だった。
瓦礫がこすれあっても、リーネみたいな声にはならない。

リーネの声は、教会の鐘の音より、もっときれいになっていく。

 「エターナルには、欲しいものが全部あるのよ。仕事があって、住むところがあって、食べ物があって、着るものにだって困らない。みんなおんなじだけ仕事をして、おんなじだけの生活ができる。なんにも苦しまなくていいのよ。」

我慢できなくなって、リーネの目を見た。

リーネの目は、緑色だった。
なんの色でもない、緑色だった。

絵の具を混ぜたような、緑色。

1週間目で、はじめてリーネの目を見たことに気づく。

 「リーネ……幸せ、なの?」

いつの間にか、言ってた。

あたし、ずっとわからなかったんだ。
ここで1週間しか過ごしてないけど、
こういうのが幸せって言うのかどうか。

あたしは、全然幸せじゃないのに。
この1週間も、その前の1週間と同じくらい。
その前の1週間もおんなじくらい。

 「ええ。」

どんなに思い出そうとしても、ナックには幸せって、わからなかった。
リーネといたときが、幸せだったんだと思おうとした。

なのに、できない。
だけじゃなかった。
リーネといたときのことが、ほとんど思い出せない。

あの頃のリーネと、今のリーネ。
どこが違うんだろう。
どこかが違うと思ってたけど、わからなくなってきてた。

 「今度の復活祭で、クレスティーユがよみがえれば、あたしたちはもっと幸せに近づけるのよ。きっと近いうちに永遠の幸せが来るのよ。」

この名前は、何回も試験に出たから覚えてる。
全てを束ねる存在、ディーン。
戦う者、クレスティーユ。
時の守護者、アージェ。
フィルガルトに伝わる、「三人」の「神」。

中世のもっとも形の整った詩として、文学の時間に。
神聖帝国フィルガルト滅亡の原因を語るものとして、歴史の時間に。
地域信仰として、地域文化の時間に。
何回も繰り返し出てきた名前。
これを覚えないと、進級できない名前。

エターナルの、守護神だって、授業で聞いた気がする。
たぶん、そうなんだろう。
バッジには、教科書で見たクレスティーユの紋章が入ってたから。

今ナックには、何も信じられるものがなかった。
リーネも、教会も、エターナルも。
だから、逆にわかったんだ。

リーネが、本当はクレスティーユを信じてないってこと。
リーネも気づいてないかもしれない、本当のところで。

でも、ナックがそうだといいと思ってるから、そう見えるのかもしれなかった。
リーネは、本当に幸せなのかもしれない。

 「私が欲しいものは、全部エターナルで手に入る。だけど、ナック、あなただけは、手に入らなかった。」

今日、一番きれいな響き。

あたしが欲しいなら、あげる。
あの日の前、あの日の前だったら、言ってた。

あたしだって、幸せが欲しい。
もらえるなら、もらいたい。
今でも、今だから、そう思ってる。

 「リーネ、あたし、ずっとそばにいるよ。」

塩辛いスープのせいだった。
塩辛いスープのおかげだった。

リーネの体、冷たくって、気持ちよかった。
この部屋の石壁と、おんなじくらいひんやりしてる。

ナックの体は、あの教会の床とおんなじくらい冷たくって、だからリーネは、とってもきつく抱きしめてた。
ナックは、あったかいところに気づかれずに済んだ。
ううん。
あったかいところなんて、もう残ってなかった。

「明後日には行かないといけないから、明日は荷造りね。忙しくなるわよ。」

リーネの喉も、しょっぱいスープでかすれてた。



ナックは、今までリーネより早く起きたことがないのに気づいた。
寝るのは同時のはず。
でも、リーネが先に寝たのを見た覚えも、ナックにはなかった。

今日はだから、狸寝入りをして、待った。
明け方の直前、空が群青になる直前だった。
でもナックには、寝てるか確かめる暇なんてなかった。
外に飛び出す。
券売所が閉まってれば、どうせ同じことなのに、
気づいたら、走ってた。

券売所が開いたのは、空が赤から青に戻りはじめた頃だった。

 「エターナルに入会されたんですね。」

ナックは、結局、ここに来たときと何も変わってないみたい。
ここに来る前も、こんなだったんだ。

 「片道券の取り扱いは、あと3時間後に開始します。申し訳ありませんが、今は、定期券の取り扱いだけなんです。」

片道券なら、ハースのお金で十分買えた。
定期は、とても無理だった。

合わせても、やっと足りるくらいで、残ったお金じゃパン一つも買えないくらいだった。


風は、西から東へ、アネートからフェイマルに吹いてる。
太陽はずいぶん高く昇ってるけど、まだ半分も進めてない。

風が強すぎて、誰も甲板にはいない。

ベストから、バッチをはずして、投げる。
海に届く前に、ナックの目では追いきれなくなった。

財布から、お金を出して、全部海に投げる。

どんなに食事が少なくても、どんなにお腹が空いてても、誰とも食べ物のやりとりはしなかった。
リーネだってそう。
残飯入れの中から食べ物をとって食べてる子もいたみたいだけど、二人はそんなことしなかった。
他の人からあげるって言われても、断ってた。
着るものも、お金も、人からはもらわなかった。

もらわなかったのにね。

泥棒をする人は、1年間進級できないんだったよね。
そうだよね、リーネ。

でも、どうしたんだろう。
リーネの顔、もう忘れちゃったのかな。

荷物の中から、そんなに薄くもない本を出してみた。
「古代・中世詩集」のカバーを海に投げ入れる。
中から出てきたのは、簡単なタイトル。それしかないような、タイトル。

「両親を説得する」「同僚を勧誘する」「幼なじみを勧誘する」「友人を勧誘する」……
分厚い本の間に、付箋が二箇所挟んであった。

「大陸教会信者を勧誘する」

「あなたの一番大切な人に理解してもらう」

風が吹いて、ナックが破く前に、本は海に向かって流されていった。

リーネは、役者になれそうもない。
どんなに嘘がうまくても、台本通りにやれなかったら、すぐに役を降ろされちゃう。

あたしも、役者なんて無理。
なのに、舞台から降ろしてもらえない。

台本が間違ってるって気づいても、
間違いでも、やめられない。

だから。
せめて、これだけは勝手にさせて。

荷物から、よれよれになった紙を出す。
ずっと出番が来なくて、次の幕から出番なのに。
でも、もう幕は降りない。

ずいぶん色が変わったと思ってたけど、
ちぎって、青い海に散らせば、まだ真っ白だった。

風が少し凪いだ。
背中が暑くなったベストを脱ぐと、潮風が、白い巡礼服と肌着の間を抜けていった。



 「お嬢さん、ハンカチ落としましたぜ。」
 「馬鹿!そんな汚え手ぬぐい落とすわけねーだろ!」

この人たちもきっと、他に何も落とすものがない人たちなんだ。

顎は山賊髭で隠しても、目尻だけは隠せない。
その髭だって、ずいぶん白いのがまじってた。

 「ねえお嬢さん、ここであったのも何かの縁だと思いやせんか?」
 「そうですよ。一緒に、一杯ぐらい付き合いましょうぜ。」

この町、通りの幅の割に人は少ない。
白い服が、時々見える。
夏なのに、みんな背中をこごめて、頭を低くして、走ってる。

大きな建物から、何人か人が出てきた。
しょんぼりしてる人がいる。
でも、その人には、励ましてる仲間がいた。

その人たちだけは、背中をこごめてなかった。

 「なあ、ちょっとくらい、付き合ってくれよ、な?おごるからさ。」
 「トマトジュースなら付き合うわよ。」

気づいたら、さっきの女の子だった。
赤い髪は、ぼさぼさだった。
バンダナをしてたけど、外れかけてた。

本当は真っ青なはずの目も、少し濁ってた。

なんだかすごい剣幕でその子が怒って、おじさんたちはどこかに逃げてった。

 「あの、ありがとうございます。」
 「あんなのには、気をつけた方がいいわよ。……ディザ?」

後ろの方にいる男の人に、その子は言った。

どこかで聞いたような名前。
でも、誰の名前だったかな。

背の高い男の人。
肩幅が広くて、がっしりしてる。
この人も少し疲れた顔をしてたけど、赤毛の女の子は安心しきった目で見てる。

なんだか、懐かしかった。
思い出せなくても、なんとなく懐かしいもの。
はじめて見るのに、ずっと前から知ってたような気がする。

その男の人と、目があった。
呆気にとられた、真っ青な目。

ナックの目もすぐ、おんなじ色になった。

 「ナック!」

 「お兄ちゃん!」

涙が出ると思った。
のに、出なかった。
どうやっても、出ない。

出てきたのは、とびっきりの笑顔だけだった。


 「マスター、ヤマウニ焼酎ボトル一本!」

向こう隣の席にいる、黒い服の人が怒鳴ってる。
赤い髪の女の子は、トマトジュースをウィスキーみたいにちびちび飲んでる。

 「お兄ちゃんが、いつもお世話になってます。」
 「ディザ、よかったわね、妹はちゃんとしてるじゃない。」

お兄ちゃんより?

思い出せなかったのは、ナックのせいだけじゃない。
お兄ちゃん、本当に大きくなってた。
腕や足の太さのことじゃない。そんなこと、どうでもいい。

目が優しくなってた。
前みたいな、入り込めないような鋭さは、あまり残ってなかった。
昔、ナックに向いてたときの目よりも、もっと丸くなってた。
その目が、みんなに向いてた。

あたしは、でも、
昔のままの、あたし。

 「ナック、お前は、何しにここに来たんだ?」

きっと、赤毛の女の子のせいだ。
あの子、ルナンって言う子がそばにいたから、お兄ちゃんは大きくなれたんだ。

あたしはもう、お兄ちゃんには、いてもいなくてもよかった。
誰にとっても、必要なかった。

 「あたし?あたしはね、大陸教会の巡礼中なんだ。」

だけど、
ナックには、お兄ちゃんが全部。

今のお兄ちゃんなら、ナックと一緒にいてくれる。

お兄ちゃんと一緒にいれば、きっと食べ物には困らない。
お金にも、困らない。
服だって、ちゃんと繕ってくれる。
宿屋に泊まろうって言えば、泊まってくれる。

今のお兄ちゃんだったら、ナックがずっと言おうと思ってたことも聞いてくれる。
ナックのどんな願い事でも、かなえてくれる。

あたしが笑顔でいさえすれば、お兄ちゃんはなんにも困らない。
悩まないで、今のお兄ちゃんのままでいてくれる。

 「大陸教会に入ってるんだね。」

 「うん、あたし、僧侶を目指してるんだもん!」

思いっきり通る声も、酒場の喧噪の中に消えてった。



 「あたし、16だけど。」
 「えっ……2つ違いだったの?」

 「よく、言われる。」




END
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